vol.58 ぼーのふぁーむ明科
池上 文康さん
ワインとアートと
ジャズに魅せられて
ぶどう畑としてよみがえった天王原
安曇野市明科地区の天王原。西向きの斜面からは正面に北アルプスの常念岳を見据え、眼下には安曇野の田園風景を見下ろします。ここはかつて地域の養蚕を支えた桑畑でしたが、蚕業の衰退とともに畑は荒れ、30年以上にわたり荒廃地として放置されてきました。
2013年に安曇野市の農業委員らで「明科地域の農業を守る会」が組織され、この地を再生する取り組みがはじまりました。地元の高校生を含むボランティアの手を借りて、木の生い茂る荒地は開墾され、天王原は10ヘクタールものワイン用ぶどう畑としてよみがえりました。
野菜などの単年作物ではなく、果樹など永年作物の圃場にするという指針のもと、栽培作物としてワイン用ぶどうが選ばれたのです。
天王原と沢をはさんで地続きの池田町の中之郷地区には、サッポロのシングルヴィンヤードシリーズを生む自社畑が広がり、西向きで水はけの良い傾斜地がワイン用ぶどうの栽培に適していることは、すでに明らかでした。
そして10年以上農作業できるという条件で耕作者が公募され、選ばれたのが「 季来里ふぁーむ 」の鈴木浩哉さん、のちに「 Le milieu(ルミリュウ) 」を立ち上げる斎藤翔さん、そして「 ぼーのふぁーむ明科 」の池上文康さんでした。
好きなことをやろうと決意
池上さんの生家は、明科の地で代々続く農家です。大学卒業後は金融の世界に入り、長年サラリーマンとして勤め、農業とは無縁のまま生きてきた池上さんですが、両親が体調を崩したことをきっかけに、家業と向き合うことになります。
あまり知らなかった自分の生まれ育った地について調べるうちに、安曇野一帯が良質なワイン用ぶどうの栽培地であること、美術や工芸作家の工房が多く、毎年アトリエを開放する「 安曇野スタイル 」が開催されていること、そして安曇野から音楽を発信する「 信州ジャズ 」というプロジェクトの存在を知ります。
ワインとアートとジャズ。自分の好きなものが安曇野に根づいていることを知った池上さんは、跡取りとしての責任感だけではなかなか踏ん切りのつかなかったものの「家を守る代わりに自分の好きなことをやろう」という情熱を灯し、家業を継ぐことを決心します。
そして2014年、55歳で仕事を辞めて、亡き父を継いで農家の10代目となるため、そして母の介護をするため、住んでいた新潟市に妻子を残して単身帰郷します。
以前からワインに魅了されていた池上さんは、飲み手であるだけでは飽き足らず、新潟市の「カーヴドッチワイナリー」に作業ボランティアとして通い、ぶどう栽培のひととおりに従事してきました。
また、子どもの頃に父親がナイアガラやマスカットベーリーAなど、ぶどうを育てていた姿をうっすら記憶しているといいます。農業未経験のまま、ぶどう農家としてゼロから踏み出せたのには、そんな背景もきっと影響しているのでしょう。
所有していた農地のほとんどは売ったり貸したりしていたため、開墾から携わった天王原に新たな圃場を設けてのスタートとなりました。
ようやくむかえた実りのとき
「所得も経験もゼロからのスタートですから、不安だらけ。何度も心が折れそうになりました」。そんな日々を乗り越えて、2017年に収穫したメルロとシャルドネは安曇野ワイナリーへ醸造を委託し、それぞれ「パッション天王原 樽熟メルロ2017」「フィールド天王原 シャルドネ2017」となりました。
2019年7月にはワインのお披露目会として「安曇野天王原ワインと信州ジャズの夕べ」を穂高にあるフレンチレストラン「 L’ATELIER DES SENS(ラトリエ・デ・サンス) 」で催しました。一部がワイン会、二部が信州ジャズのライブという二部構成です。
そしてワインのラベルには、安曇野在住の画家、 成瀬政博さん の絵が使われています。「安曇野スタイル」公式パンフレットの表紙を飾っていた絵で、「自分を安曇野に引っ張ってきた絵」だと池上さんは言います。
ワインとアートとジャズ、加えておいしいフレンチも。「好きなことをやろう」と決めてから5年。池上さんの思いが、まさに具現化した一夜でした。
さらに朗報がもたらされました。天王原のメルロで仕込んだ安曇野ワイナリーの「天王原メルロ樽熟成2017」が日本ワインコンクールで銅賞を受賞したのです。
2019年、実りの秋。畑では竜眼がはじめての房をつけました。そしてカベルネ・ソーヴィニヨンが初収穫をむかえます。
(取材・文/塚田結子 写真/長岡竜介)
池上 文康
いけがみ ふみやす
1959年生まれ、安曇野市明科出身。松本深志高校卒業後、京都大学に進学。大学卒業後は都内で銀行、外資系証券会社に勤める。新潟の大手スーパー勤務時代にワインに興味をもち、ワイナリーでの作業ボランティアに従事。2013年、脱サラして亡き父を継ぎ、農家の10代目となり、明科の天王原でぶどう栽培を開始した